建てる前に、事業をつくる──建築家・小笠原太一が明かす「図面を引かない」設計論
建築家という肩書きでありながら、「いわゆる建築家らしい図面引きや意匠デザインよりも、その場所に何をつくるかという企画や事業そのものを手がけている」と語る小笠原企画代表・小笠原太一。
中国・上海での大規模な商業開発を経て、現在は長崎の斜面地で空き家を再生するプロジェクトなど、独自の領域を切り拓いています。今回は小笠原さんに、日々の暮らしで大切にしているデザインや、設計にとどまらず事業主として建築に向き合うようになった転機についてお話を伺いました。
建築家・小笠原太一

1979年大阪府生まれ、滋賀県育ち。京都精華大学卒業後、設計事務所を経て独立。2011年に中国・上海へ渡り、大型商業施設などの設計・開発に携わる。2016年の帰国後、福岡を拠点に「小笠原企画」を設立。2018年からは長崎の空き家や木造長屋を再生する「長崎坂宿」を手がけ、建築設計から開発・運営まで幅広く取り組んでいる。
シンプルさをベースに、骨董や民芸の彩りを添える

まず最初に、小笠原さんが日頃の暮らしの中で大切にされている「デザイン」について伺いました。
「実はそこまで強いこだわりがあるわけではないんです。どちらかというとシンプルで機能的なものをベースにしながら、気に入った骨董や民芸品、少し強めな配色を部分的に取り入れるようなデザインが好きですね。
僕自身、古い建物を改修する仕事が多いので、もともとあるベースをなるべく活かしつつ、ポイントで何かを足していく感覚が心地いいと感じています」
続いて、普段落ち着く「お気に入りの場所や空間」について尋ねると、プライベートが確保された静かな空間を挙げてくださいました。
「やっぱり一人になれる静かな空間が好きですね。人が多くてごちゃごちゃしていたり、極端に暑かったりするような快適じゃない場所は少し苦手で(笑)。
プライバシーがきちんと守られている空間と、そうではないオープンな空間が明確に分けられている場所が落ち着きます」
熱気あふれる中国で学んだ、商業開発と人を惹きつける力
日本で建築を学んだ後、リーマンショックの時期に中国・上海へと渡った小笠原さん。当時の日本と中国の建築シーンの違いや、現地での経験について伺いました。
「一番大きかったのは社会の状況の違いでした。当時の日本はリーマンショック以降ずっと右肩下がりだったのに対し、中国は社会全体がぐんぐん伸びていくものすごい活気とエネルギーがあったんです。世界中で建築の仕事がストップしていた時期でしたが、中国にだけは仕事があったので、世界中から名だたる建築家や大規模な設計事務所が上海に集まっていました。 完成する建物の施工精度などはまだ荒削りでしたが、コンペでの提案レベルはものすごく高くて、本当に勉強になりましたね。
実務としてはショッピングモールを中心とした商業開発を担当していたので、どうやって人を集めて回遊させるかというノウハウを徹底的に学べたことが大きな収穫でした」
「自分たちで事業をやる」──設計者から事業主へ至った転機

設計業務にとどまらず、自ら事業主として企画・開発・運営まで手がける現在のワークスタイルには、どのようにして行き着いたのでしょうか。そのきっかけとなった中国での出来事について伺いました。
「当時僕らが担当していたクライアントは、中国内陸部の地方都市にある事業会社やオーナーが多かったんです。そうした地域にはまだショッピングモールがなく、百貨店やスーパーマーケットしかありませんでした。そのため、建物の設計だけでなく『ショッピングモールとは何か』という事業ノウハウを一から提供することから始まったんですね。
何年かして無事にモールが開業すると、大成功を収めてオーナーは莫大な利益を得るわけです。でも、僕たちの手元に入ってくるのはごく一部の設計料だけでした。
『これだけ企画やノウハウを提供しているのなら、自分たちで事業をやった方がいいんじゃないか』と強く思うようになったんです。現地で挑戦しようと模索したものの簡単にはいかず、日本に帰国して自分でやってみようと決意したのが、今の働き方の原点です」
枠組みを越えて、場所の可能性を最大化する
図面を引くだけの建築家にとどまらず、事業の企画から運営までを一貫して見つめる小笠原さん。中国のダイナミックな市場で培った「人を惹きつける商業開発の視点」と、「自ら事業リスクを引き受けて場を育てる姿勢」は、日本の成熟した地域社会においても強い説得力を放っています。既存の建築家の職能という枠組みにとらわれず、その土地の状況に合わせて柔軟に役割を変えていく小笠原さんの歩みは、これからの時代におけるものづくりの新しいあり方を鮮やかに示しています。
後編:50メートルの路地に宿る街の未来──建築家・小笠原太一が実践する「ひとり地域開発」(9月8日 公開予定)