元プロボクサー。独学で世界的な建築家に。異色の闘う建築家、安藤忠雄
元ボクサーの経歴を持ち、独学で建築を学んだという異色の“闘う建築家”。建築界のノーベル賞と呼ばれる、プリツカー賞を受賞。独自の視点と世界観でユニークな建築を作り上げてきたことが、高く評価された。
実家の増築時、長屋に差し込む光に衝撃を受けた。
1941年大阪生まれ。一人娘だった母親の実家・安藤家を継ぐため、祖父母の安藤彦一・キクエの養子となり、大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。安藤が中学2年生のとき、自宅の長屋の2階を増築した。昼食も傍らに一心不乱に働く大工に興味を持ち、屋根が取り壊された際に長屋に差し込んだ光は、安藤に強烈な衝撃を与えた。
高校2年生のとき、安藤はプロボクサーとしてデビューした。双子の弟、北山孝雄が半年早くプロボクサーになっていた。ジムに通い始めて、1ヶ月でライセンスを取得した。1回の試合のファイトマネーは4,000円。当時の新入社員の初任給は10,000円だった。過酷な減量に耐え、ロープに囲まれた四角いリングの上で敵と向かい合い、自らを奮い立たせて極限まで戦った。ボクシングに励んだ1年半。才能に限界を感じ、ボクサーの道をすっぱりと諦めた。
昼食時間も惜しみ独学で建築家に。
経済的、そして学力的な問題で、大学進学は諦めざるを得なかった。京大や阪大に進んだ建築家の友人に教科書を譲ってもらい、彼らが4年間で学ぶところを、1年で体得しようと、とにかく本を貪り読んだ。
1965年、一般人の海外旅行が解禁になった翌年、アルバイトで貯めたお金で7ヶ月の間、世界中を旅した。体力の続く限りひたすら歩き続け、建築を見た。知識よりもまずは体験して、身体で建築を知った。1969年、安藤忠雄建築研究所を設立した。
徹底的に削ぎ落とす。ANDO建築に欠かせないコンクリート打ち放し。
その後、生家とほぼ同じ形の敷地と面積の「住吉の長屋」を設計。建築雑誌に掲載されると、それが高く評価され、1979年に日本建築学会賞を受賞した。「光の協会」では、厳しい予算の中、禁欲的な空間に教会のシンボルである十字架をスリットで表現し、教会建築に革新を与えた。どちらの代表作も、ANDO建築には欠かせないコンクリート打ち放しが魅力である。
安藤が装飾のない淡白な素材であるコンクリートを使うのは理由がある。コンクリートの空間では、人間が装飾品の役割をする。そうすることで、人間が最も美しく見える場所になるのである。
脇目も振らず全力疾走で走り続ける安藤。2009年、十二指腸にがんが見つかった。その後も転移し、胆嚢・胆管・十二指腸を全摘出。5年後には膵臓と脾臓にがんが再発し、全摘出した。当時はどうなることかと絶望したが、元気に働く姿は医師さえも驚かせたという。
数々の武勇伝を持つ安藤の姿勢を愛する人は後を絶たない。極限まで絞りぬき、削り出した設計は、依頼人に困難を強いるものも多い。しかし、「暑ければ1枚脱げばいい、寒ければアスレチックに行けばいい」と、安藤は頭を働かせ、想像力を掻き立てる、生きた人間を含む空間をデザインしているのである。「便利さ」だけではない「快適さ」を安藤の建築は気づかせてくれる。