モダニズムやドイツ的デザインの源流になった「バウハウス」のベルリン移転と閉校、そしてその後。

「バウハウス」は、存在したのはたった14年という短い期間だったのにもかかわらず、モダニズムやドイツ的デザインの源流となり、2019年に100周年を迎えた。1919年にヴァイマールから始まったバウハウスは、1925年に新興工業都市であったデッサウに移転。ヴァルター・グロピウスの後継者としてスイス出身の建築家であるハンネス・マイヤーが2代目校長に就任し、合理主義や規格化などを重視し、バウハウス自体の初めての黒字化や国際的な評価を最大限に高めた。

ミース・ファン・デル・ローエの校長就任とベルリン移転・閉校

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2代目校長であるハンネス・マイヤーが公然たる共産主義者だったこともあり、バウハウス自体がナチス・ドイツなどの右翼政党からの風当りが強くなってしまう。1930年にハンネス・マイヤーが解任されると、現代ではグロピウスを加えるとモダニズムの4大巨匠と言われるミース・ファン・デル・ローエが3代目の校長に就任した。

これは、ペーター・ベーレンスで事務所で協働したり、1927年のドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展でも顔を合わせたりしたグロピウスの推薦によるもので、その後の正統なモダニズムの建築家となるミースの素質を見抜いてのことであると思われる。ミース自体もグロピウスによるバウハウスの理念に共感して引き受けたと言われている。

しかし1932年にはバウハウスは、権力が強大化したナチス・ドイツによってデッサウでの存続ができなくなってしまう。デッサウではデッサウ市立の学校だったが、ベルリンに移転してミースの私立学校として再スタートを切る。

結局1933年に自主解散というかたちでバウハウスは閉校を余儀無くされ、校長だったミースを含めてマイスターたちも新天地アメリカへ亡命することになる。

グロピウスの奔走によってアメリカで花開くバウハウス

世界史でも知られるようにナチス・ドイツが勢いを増した結果、バウハウスの多くの教員たちはアメリカでの活動を開始した。

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バウハウスの創始者であり、初代校長であるヴァルター・グロピウスは、1934年にイギリスに亡命した後、1937年にハーバード大学の教授に就任。自らも設計活動を行う傍で、ルーブル美術館のガラスのピラミッドで知られるI.M.ペイやガラスの家で知られるフィリップ・ジョンソンなど大物建築家を育てた。

モホリ=ナジ・ラースロー via: Wikipedia.

また、モホリ=ナジは、グロピウスによってシカゴに設立された「ニュー・バウハウス」の学長に指名された。その後経営難でカタチや名前を変えて存続し、結果的にイリノイ工科大学に吸収合併されることになる。

イリノイ工科大学クラウン・ホール

3代目の校長を務めたミースは、グロピウスの依頼によってそのイリノイ工科大学の建築学科の主任教授となり、学生を指導すると同時に数多くの名作建築を生んでいる。同大学内にある「クラウン・ホール」やシカゴ郊外にある「ファンズワース邸」などはミースの代表作。

 

このようにグロピウスのアメリカでの奔走とマルセル・ブロイヤーなどバウハウス時代の関係者への援助によって、バウハウスの理念や教育はカタチを変えて伝承され続けた。たったの14年しか存在していないバウハウスの存在がこれ程まで大きく世界に影響を与え続けているのは、グロピウスのその想いと理念があったからこそである。